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2006/11/16

growth-attenuation treatment (その3)

本件についてあまりこだわってはいけないのかしらとも思うのだが、たまたま縁あって少し長めに考えている。というのも、匿名の方から著者らの論文をいただいたからだ。感謝している。が、途中までしか読んでいない。ごめんなさい。

過去のエントリーはこちら。
重度発達障害児の成長を止める“療法”
growth-attenuation treatment 追記


それで学生と話し合ったりして幾つか整理している。その話は後で出すとして、その前にひとつ。

主人公の女の子は日本で言うところの重症心身障害のようなお子さんらしい。ロイターの記事を読んだ限りでは、日本的定義でいうところの発達障害なのか、それとも身体と知的を併せ持った子なのか、確定しかねていた。それで、最初のblogエントリーはその辺を少し曖昧に書いた。基の論文からはっきりした。

さて、学生とこの件で少し話をした。それで彼らの助けを得て、自分のわからなさを少し整理した。私は2つのことについて気にしているようだ。

ひとつは「成長・発達とはどういう(どのような、どの程度の)価値(観)なのか?」について。
もうひとつは「この決定に親の希望はどの程度関与する妥当性があるのか?」について(ヘンな日本語)。
これらは相互に絡まっているが、ひとまず切り離して考えることも出来るように思う。

まず1番目の疑問について考える。
blogでは下手な比較例を出してみたが、あまり成功していなかった。それで再度、学生といろいろ出し合ってみる。

0)今の社会には、基本的に成長や発達を是とする社会通念と価値観がある。
1)成長が一定偏差以上に遅い場合には、介入する場合がある。
2)成長しすぎる場合にも止める場合があるだろう。
3)成長に伴って死んだり重篤な状態になる病気がもしあれば、その場合は止めるだろう。
4)太りすぎる場合には管理することがある。
5)韓国では長身に価値があるので、小さい子どもに親が伸長術(膝に何か入れるとか)することがある(これは知りませんでした)。

0については前提として置いておく(これが正しくない場合はどんな場合なのか、よく考えるべきだが、ひとまずはこれで…)。
1は0に添う。おそらくは審美的もしくは社会通念に従う気持ちから為される。健康上の理由もあるのかもしれないがよくわからない。
2、3は0には添わない。ただし3は比較事象があまりにも強いので、成長を止めることは理解されやすいと思われる。
2はどんな場合だろうか? 健康上の理由であれば上記に準じて理解されやすいだろう。審美的な理由の場合は本人意思が明確である場合はわかりやすいけれど、そうでない場合にはちょうど境界線的な話になるのかもしれない。そして論文では、社会通念上の理由(簡単に言えば背の高い女性がいやがられた時代があった)で2が過去から行われていたことが記載されている(ただし現在はそのようなスティグマが減ってきたので処置例も減ったと書いてある)。
4は成長ではない。ただし成長ではない場合の例として使える。
5は0に添う。しかし明らかに健康上ではなく社会通念上の理由(もしくはそういう価値観)。更に、意思表明が不明確な子どもに対して親権者たる親が(子どものためを思って)判断・実施している。なので、少し2番目の疑問に関わってくるような話かもしれない。

成長や発達は場合によっては他者から介入されることもある「価値」のようなのだが、しかしやはり前提0の逆方向というのはなかなか比べるものが無く難儀する。3のように比較対象が強ければ止めることも容易に決定されるのだろうが、もう少し弱い理由で止めるような例がイメージできない。

少し話がずれるが、いわゆる医療同意の問題についてはそれなりに議論が進んでおり、本人の意思能力を確認しつつどう判断していくかの手順も提起されているようだ。
この中では、同意を求めるべき事態の重要性によって本人の意思能力判定はレベルが異なるとの考え方があり、これを閾値と呼んでいる。

そのような背景もあって、未成年(かつ本人意思の明確ではない人)に対して成長を止めるというのはどのような重要性を持つのだろうかということを絶対値的にも相対的にでも少し考えてみたかった。しかし感覚的には、場合によっては意外と弱い価値観であり、つまりあれこれと操作されてきたものなのかもしれないなと思ったりもしている(善し悪しは別として)。だから他の価値と相対的に優先されたり、後回しにされやすい(まあ、なんでもそうでしょうけど)。さて、そんな中で「親が介助し続けたい」しかも「今と同じように対応したい」から「今と同じ大きさであって欲しい」ことを「親が希望する」というのは、どの程度の重要性があるのか。それとの比較が検討されることとなる。
 
 
次にもうひとつの問題、親の関与について。こちらはあまり上手く議論できない。
本人の状態や wellness/happiness との関係から理由が構成されていれば良かったのだが(そうすれば多くを最初の問題に帰着させることが出来る)、親がずっと介助して暮らしたいからというのが大きな理由としてあげれているので話がやっかいになる。そして、こちらの点についてはどうも肯定できない。
ここの部分についてはいろんな価値観や社会資源の状態なども絡んでくるので、いろんな議論が出来やすくなると思われる。従って、倫理委員会での議論だからと素直に受ける容れることも出来ないかもしれない。もしかして倫理委員会はこっちの問題にはあまり触れずに決定を出しているかもしれない(まだ読んでないけど)。実は(というか)原著者としては、“家族と一緒に暮らすことが望ましいとの意見が小児学会の障害児セクションから出されているから”という根拠を挙げ、ここから議論を開始している。私も家族が一緒にいることは否定しないけれど、それがどこまでも優先的事由であるとも思っていない。
(そもそも議論の持って行き方としてちょっと苦しいんじゃないかという気もする)
 
 
今のところ、こんな感じだ。
いつになるかわからないが、後半の倫理的議論を読んだらまた書いてみたい。

…でもまあ、忙しいって言う割にこんなこと書いてるんだから、あんまり頭働かせてるわけでもないか。

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