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2006/06/14

したたかに悪く?じたばたと生きることの許容、というか

前回(前日)書き込みの続編にあたる。引き続き、いわゆる軽度の方が念頭にある。

障害者自立支援法の登場でよりはっきりしたのだが、しかし実はそれ以前から強まっているように感じていることがある。(←そもそも自立支援法で軽度知的障害者は相手にされていないので、この言い方は混乱させるだけかも)

支援が、綺麗にまとまっているというのか、型にはまっているというのか、枠組みの中に収まってしまう、あるいは収めさせられてしまう。
そしてそのような枠に収まらないものが許容されないという感覚。

支援の必要な人が居て、その人達は支援が無ければ暮らせなくて、そしてそうじゃないところでの支援が許されない制度になっていたり。
いっぽう、支援が必要ではない人は、見向きもされなくて。そんな二分法的な枠組み。
これは制度の話だけではなく、私たちの認識もそうなってきているんじゃないかと思うところもある。

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支援についてというよりも支援的な関わり方について、無理矢理に、予め型と後から型に分けてみる。予め相手に提供しておき、つつがなく過ごせるようにしていくのと、後からバタバタとあわてふためいて関わっていくもの。意図的にどちらかにするというよりは、結果としてそうなるということなのだろうけど。前者も後者もどちらもある。
関わる以上は前者が理想でしょうということになるのかも知れない。でも捻くれた私は、なんとなく、前者ばかりの支援関係を肯けない。あれもこれもと先走って整えることは、場合によっては、支援の必要な状況を継続させていることにのみ貢献しているということもあるのでは。
支援は所詮後からあらあらとやっていくくらいのものだと自重する(自嘲する?)こともあるのではないか。

それはたぶん、したたかに悪く?じたばたと生きることの許容ということなのではないか。あー、でも生きることにそもそも良いとか悪いとかあるのか。でも少なくとも今はあるような気がする。私があると思うというよりも、世間が、あるようになっている。

支援が必要なのか、そうじゃないのか、よくわからない感じの人。
勝手に生きていると言えばそうだし、でも生活できていないと言えばそうかもしれないという人。
そんなくらいあたりで生きている人が、生きていそうな人が、たぶんいちばん手がかかって、たいへんな人と言われるのかもしれない。が、見方を変えれば、それはそれで日々をやっているのかもしれない。100点じゃない生き方というか、さらには、及第点じゃない生き方と言えばよいのか。

ところがそれを“そういう人こそが支援の必要な人”と括ると、また前の二分法に戻ってしまう。だから括らない。


或る支援者から聞いた話。軽度ではなく重度の障害の人についてだけど、感覚が近いと思えたので引用。
「障害が重くて、前はホームで暮らせないと思ってた人がね、でも別の理由でホームに行かなくちゃいけなくなって、それでやってみたらそれなりに暮らせるということがわかってしまった。あ、そういうものなんだなと思ったら、いままで枷にしていたものが何だったのかな、と。それって自分たちじゃないか、と。」


ps
許容、なんてずいぶんと偉そうな物言いかも。
それでいいやと思う、という程度の言葉のつもり。

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